ALPHONSE MUCHA

History

アルフオンス・ミュシャは、現在のチェコ、モラヴィア地方に生まれ、アールヌーヴォーの頂点を極めた画家であり装飾芸術家です。ミュシャの芸術様式は、祖国のチェコ、パリを中心とするヨーロッパ、日本、ビザンチン、イスラムなど多様な造型要素を受け入れ形成されており、コスモポリタンな芸術家でもあります。ミュシャは19世紀末に花開いたアールヌーヴォーを代表する芸術家ということでも多大な評価を受けてきました。

( ロリューのカレンダー1894年 )
( ミュシャとゴーギャン )

そのポスターでミュシャは、大衆の支持を得て、文化的価値はもちろんのこと、商業的な価値をも高めたポスターの制作、本の挿絵、装飾芸術なども含むさまざまなオブジェ、商品パッケージやジュエリーのデザイン、広告など、広い意味でのアートディレクションの仕事も数多くこなしました。50歳になったミュシャは祖国チェコへ戻りスラブ民族の取材を行い、受難の歴史や貧しさを抱えた人々を目の当たりにします。祖国に愛をささげる決意をしたミュシャは18年の歳月をかけてスラブ民族の歴史を描く大作『スラブ叙事詩』の制作に精魂をかたむけました。

( ミュシャの生家 )
( ミュシャ8歳時の作品 )

ミュシャは人生のほとんどの時期を芸術に費やした作家です。
特に1894年から1904年までの10年間は、ミュシャのその後の人生に大きく影響を与えたポスターをはじめとする創作が行われました。特にパリ滞在中にデザインした、女優サラ・ベルナールのポスターの数々は、ミュシャの名声と人気を絶対なものにしました。花々のつる状の曲線と、華麗でしなやかなうえ繊細で長い描線を特徴とする作品です。

( バルカン半島の旅 )
( スラブ叙事詩制作中のミュシャ )

Profile

  • 1860年

    7月24日、現在のチェコ、モラヴイアで廷吏の息子として生まれる。

  • 1873年

    雑誌「モテット」の表紙を描くはじめてのデッサン。

  • 1879年

    ウィーンに赴き、舞台美術工房で働く。

  • 1883年

    コーエン・ベラシ伯爵に雇われ、エマホフ城の絵画を修復する。

  • 1888年

    パリに出てアカデミー・ジュリアンに学ぶ。

  • 1890年

    雑誌に挿絵を描いて生計を立てる。

  • 1891年

    ゴーギャンと知り合う。

  • 1893年

    写真機を購入し、撮影を始める。

  • 1894年

    サラ・ベルナール主演のポスター製作好評を博し、翌年から6年間のポスター契約を結ぶ。

  • 1895年

    「ラ・プリュム」誌の画廊、サロン・デ・サンの展覧会に出品本や雑誌の表紙を精力的に製作しはじめる。

  • 1897年

    ギャルリー・ド・ラ・ボルディニエールで初個展。

  • 1900年

    パリ万国博覧会で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当。

  • 1901年

    レジオン・ドヌール勲章受賞。

  • 1902年

    プラハで開催されたロダンの大展覧会に、ロダンと共にプラハへ。

  • 1904年

    アメリカに招かれ、ニューヨーク、ボストン、シカゴを訪問。

  • 1906年

    マリア・シティロバとプラハで結婚妻と共にアメリカに渡る。

  • 1909年

    7月24日、現在のチェコ、モラヴイアで廷吏の息子として生まれる。

  • 1911年

    ニューヨークの新ドイツ劇場の装飾を依頼される。

  • 1860年

    プラハ市庁舎の壁画製作開始。

  • 1919年

    スラブ叙事詩の最初の11点をプラハで公開。

  • 1931年

    プラハの聖ヴイダ大聖堂のステンド・グラス製作。

  • 1939年

    7月14日、プラハにて没享年79歳

  • 1860年

    7月24日、現在のチェコ、南モラヴィア地方のイヴァンチツェに廷吏の息子として生まれる

  • 1873年

    雑誌「モテット」の表紙を描く。はじめてのデッサン

  • 1879年

    ウィーンに赴き、舞台美術工房で情景画家として働く

  • 1883年

    クーエン・ベラジ伯爵に招かれ、エマホフ城の装飾を制作する

  • 1885年

    クーエン・ベラシ伯爵の後援でミュンヘンの美術アカデミーで学び始める

  • 1887年

    パリに渡り、アカデミー・ジュリアンで学ぶ

  • 1891年

    ゴーギャンと知り合う

  • 1892年

    シャルル・セニョボスの『アルルの歴史とエピソード』の挿絵を依頼される

  • 1893年

    印刷用インク製造販売のロリュー社1894年のカレンダー・デザインを担当し初の商業的成功を収める。 写真機を購入し、撮影を始める

  • 1894年

    ミュシャは、サルドゥ総督の舞台にジスモンダ役で主演するサラ・ベルナールのために初めてポスターを手掛ける。 この成功により、大女優「神々しいサラ」と6年間の契約を結ぶことになる

  • 1895年

    「ラ・プリュム」誌の画廊、サロン・デ・サンの展覧会に出品する本や雑誌の表紙を精力的に製作しはじめる

  • 1896年

    ミュシャの最初の装飾パネル-四季-が印刷された

  • 1897年

    2月、パリのギャルリー・ド・ラ・ボルディニエールで最初の個展が開催され、107点のミュシャの作品が展示される

  • 1898年

    ミュシャはオーストリア・ハンガリー政府の依頼で、1900年のパリ万国博覧会に参加することが決定しボスニア・ヘルツェゴヴィナ館の装飾を担当する

  • 1900年

    パリのフーケ宝石店の設計に着手し、最も華麗なアールヌーボー様式の店舗の装飾をデザインする

  • 1901年

    レジオン・ドヌール勲章受賞

  • 1902年

    芸術家の為のハンドブック装飾資料集「Documents Décoratifs」を出版する。 この年、プラハで開催されたロダンの大展覧会にロダンと共にプラハへ向かう

  • 1904年

    アメリカに招かれ、ニューヨーク、ボストン、シカゴを訪問

  • 1905年

    「Figures Décoratifs」を出版する

  • 1906年

    マリア・シティロバとプラハで結婚、妻と共にアメリカに渡る。教鞭をとりながら同時に多くの肖像画を描く

  • 1909年

    ニューヨークの新ドイツ劇場の装飾を依頼される

  • 1910年

    1910年プラハに戻り『スラヴ叙事詩』の制作に取り掛かる

  • 1911年

    プラハの市庁舎の市長ホールの装飾と壁画製作開始を完成させる。プラハにおけるアールヌーボー様式の最後の重要な芸術作品となる

  • 1918年

    新しく設立されたチェコスロバキア共和国の切手と紙幣をデザイン

  • 1919年

    スラブ叙事詩の最初の11点をプラハで公開

  • 1921年

    ニューヨークのブルックリン美術館でミュシャの作品展が開催され、成功を収める

  • 1928年

    完成した「スラヴ叙事詩」がチェコ国民とプラハ市に正式に贈呈される

  • 1931年

    プラハの聖ヴィート大聖堂のステンドグラスの窓をデザインする

  • 1939年

    ドイツによるチェコスロバキア占領後、ミュシャはゲシュタポによって最初に逮捕された一人となる

( ミュシャのアトリエでオルガンを弾くゴーギャン )
( ジスモンダのポスター )
( パリ万国博のためのスケッチ )
( パリロワイアル通りの6号のフーケ宝飾店正面 )
( ミュシャの妻と子供 )
( プラハの聖ヴィート大聖堂のステンドグラス)